日本共産党 書記局長参議院議員
小池 晃

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プロフィール

日本共産党書記局長 小池晃(こいけあきら)

座右の銘/命どぅ宝ぬちどぅたから(命こそ宝)
家族/ 妻と1男と愛犬趣味/ 犬の散歩、観劇、釣り

略歴

1960年
6月9日生まれ(東京世田谷区)武蔵野市立大野田小学校、第四中学校、筑波大学附属 駒場高等学校、東北大学医学部
1984年
全国医学生自治会連絡会議(医学連連)委員長 として、全日本医学生自治会連合(医学連)再建のため尽力
1985年
全日本学生自治会総連合(全学連)副委員長、 国際部長
1987年
3月東北大学医学部医学科卒業
1987年
4月健康文化会小豆沢病院入職。 その後医療法人社団北病院を経て1997年10月より東京勤労者医療会代々木病院勤務。
1998年
全日本民主医療機関連合会(全日本民医連 )理事
1998年
7月参議院選挙(比例区)で初当選。国民福祉委員会理事、社会保障制度審議会委員、共生社会に関する調査会委員、予算委員会理事、議院運営委員会理事、金融問題及び経済活性化に関する特別委員会委員、国会対策委員長代理などをつとめる。
2004年1月
日本共産党常任幹部会委員、政策委員長
2004年7月
参議院選挙(比例区)で当選(2期目)。日本共産党参議院議員団幹事長
2007年8月
日本共産党参議院議員団長(参議院議員団幹事長兼任)
2013年2月
日本共産党 副委員長
2013年7月
参議院選挙(比例区)で当選(3期目)。厚生労働委員会委員、予算委員会委員
2016年4月
日本共産党 書記局長
2016年8月
財政金融委員会委員、国家基本政策委員会委員

小池 晃物語-小池晃が語る 生い立ち・青春・共産党

1枚の写真に衝撃

1960年に東京都内で生まれ、ひばりが丘団地で育ちました。同じ時期に、不破哲三さん(社会科学研究所所長)も住んでおられたそうです。どこかですれ違っていたかもしれませんね。(笑い)
父親の勤めていた会社は転勤が多かったので、そこに住んでいたのは2歳まで。その後、神奈川県大和市、福岡市、東京都中野区と転々として、幼稚園のころに武蔵野市に移り、中学卒業まで過ごしました。
武蔵野市には当時、広大な米軍住宅がありました。僕が通っていた小学校校舎の建て替えの関係で、1年間、返還が決まったアメリカンスクールの校舎で勉強した経験があります。アメリカンスクールの施設はとても立派で、滑り台、ジャングルジムなどの遊具はすごく頑丈で立派なものでした。アメリカの学校は、なんでこんなにいい施設なんだろうって思ったことを、よく覚えています。

学校の図書館で
小学校の図書館の本で、石川文洋さんのベトナム戦争の写真を見た時のことは、いまも忘れられません。
 米兵が、下半身を吹き飛ばされたベトナム人の死体を手に持っていました。たまたま本を見ていたら、その写真が目に入って、衝撃を受けました。
悲惨さ以上に、こんなことを平気でできる戦争って、いったいなんなのかを考えました。その日の夜は一晩中、眠れないくらいショックでした。戦争は絶対に許すことができないという強い思いを子どもながらに持ちました。
その後引っ越して、東京の高校には横浜市から通いました。リベラルな校風で、たとえば、倫理社会の夏休みの読書感想文の課題は小林多喜二の作品だったりしましたね。
そのころ、「ソ連が攻めてくるかもしれない」という口実で、有事立法制定の動きがありました。僕は、憲法9条がある限り日本は戦争をしないと思っていたけれども、このままでは戦争しかねないという問題意識、危機感をだんだんもつようになりました。

戦争反対貫く党
両親から戦争の話を聞いたときは、「あの時は、みんな賛成したから仕方がなかった」と。しかし、民青同盟に入っている同級生から聞いて、戦争に反対して命がけで活動したのが日本共産党だということを初めて知りました。
民青同盟の活動に興味・関心が生まれたし、日本共産党のことも学んでみたいと思い、高校3年のときに民青同盟に入りました。
戦争反対が、僕の原点です。

写真/小学生のころの小池さん

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どういう医師になるか

高校時代に父の本棚で見つけた一冊の本が、医師をめざす一つのきっかけになりました。長野県・佐久総合病院の院長をしていた若月俊一さん(故人)が書いた『村で病気とたたかう』(岩波新書)という本です。
 地域の農民たちと力をあわせて健康づくりをやり、村の健康状態をみんなで良くしていく実践が書かれていて、医師という仕事は地域の人々と力をあわせて健康をつくっていくものだという思いが伝わってくるものでした。
 本の最後に若月さんは「医者は、単なる技術者であってはならないのではないか。…もっと『人間的』『社会的』医者であってほしいと、国民は願っているのである」と書いています。医師は、「命を守る崇高な仕事だ」という思いとともに、「学問や知識はいったい何に生かしていくべきか」と自分に問いかけました。

受験勉強の中で
 日本共産党に入党したのは、大学受験に一度失敗し、予備校に通っていた19歳のときです。
 予備校に共産党の支部があり、はじめに入党の話を聞いたときは「大学受験があるから合格するまで待ってほしい」といったのですが、「共産党に入り、生き方の目標を持つことで受験勉強も進む」という話をされたことをおぼえています。
 そのときに共産党に出合えたことは本当に幸せでした。受験勉強だけを一生懸命やるということではなく、どういう医師になるのかについて、問題意識をしっかり持ちながら勉強することができたように思います。

「医学連」を再建
 東北大学医学部に入学したのが1980年。大学時代でまず思い起こすのは、教養部時代に学費値上げ反対闘争に取り組んだことです。
 学部間格差の導入がいわれて、医学部の学費はとくに大幅に値上げが計画され、僕は教養部自治会の委員長として学費値上げ反対運動に没頭しました。運動の結果、学生大会が二十数年ぶりに成立してスト権を確立し、さまざま妨害を打ち破って、教養部のストをやりきった。これは大きな体験でした。
 医学部に上がってからは、医学生ゼミナールという全国の医学生の自主的なゼミナール活動で「どういう医者になるのか」という議論を夜通しやりました。大学で研究する道もあるけれども、地域医療を支える役割を果たし、病気だけではなく背景にある社会的条件、経済的条件もしっかりみることができる医師になろうじゃないか。そんな議論をしました。
 在学中には勉学のかたわら、東京都中野区にあった全日本学生自治会総連合(全学連)の会館に3年間常駐し、医学生自治会の全国組織=全日本医学生自治会連合(医学連)の再建(1984年)にも取り組みました。
 再建大会の最終盤は毎日激論でした。一つの全国組織を結成するというのは得がたい経験で、その医学連はいまも脈々と続いています。うれしい限りです。

写真/医学連結成大会であいさつする小池さん=1984年

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“社会の病気”治し、命守る

東北大学を卒業してからは、研修医として小豆沢病院(東京都板橋区)に勤務し、その後、10年余り、甲府共立病院(甲府市)、北病院(北区)、代々木病院(渋谷区)で医師として働きました。
研修医や若手医師の時代は、とにかく治療方法、薬の使い方などを走りながら勉強し、また走るという感じ。全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の病院なので、チーム医療、民主的集団医療をモットーにやっていますから、看護師、薬剤師、検査やX線の技師、事務のみなさんらと力を合わせて患者さんを治していくというチームの仕事には本当にやりがいを感じました。

入院できない
一方では、地域医療の現場、とくに民医連の病院で働いていると、病気だけを治していれば完結するという世界ではないということも日に日に痛感するようになりました。
さまざまな社会的問題をかかえている患者さんが来るし、救急外来などで治療にあたっていると、来たときにはすでに手の施しようのない進行したがんだったとか、長時間過密労働でまだ若いのに心臓病、脳卒中とか、そういう患者さんを何人も見ました。患者さんの背景にある経済的・社会的条件、そしてその条件をつくっている政治の貧困を常に感じながらの仕事です。
あるとき、夜間外来で診察した個人タクシーの運転手さんは、糖尿病の患者さんでした。定期的にではなく、思い出したようにときどき来る人でした。血糖値を測ったら、すごく高い。「入院したほうがいい」といったら、「先生、入院なんかとてもできない。車を買い替えたばかりで、死んだら保険金が入るから、その方が都合がいいんだ」といわれました。その言葉は、いまでも忘れられません。
脳卒中で救急病棟に運び込まれた、お年寄りの患者さんも診ました。懸命の治療で、非常に危ないところを乗り切って、やっと自宅に帰られるようになったと思ったら、家族はどうしても仕事をしなければ暮らしていけないので、昼間、面倒をみる人がいない。自宅では引き取れない、といわれました。仕方なく、いろんな病院や施設を転々としている間に、病気がまた再発し、後日、「亡くなったそうです」という連絡がありました。

毎日毎日が…
これらは一つや二つのケースではありません。毎日毎日が、そんなことの連続でした。
医療・介護の現場で働いている人の多くは、日々、医療制度、介護制度、そして社会の矛盾を感じながら、悔しいけれどもがんばるということの連続じゃないでしょうか。
いまの日本の社会保障、医療、介護の仕組みそのものを変えないと、本当の意味で責任を持って患者さんの命を守ることはできません。いわば社会の病気、政治の病気を治すことで、患者さんの命を守りたいという思いがつのっていきました。

写真/北病院(東京都北区)で診察する小池さん=1995年

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事実の重みが政治動かす

党から参院選の比例代表で立候補しないかという話があったのは、1997年のことです。
地域医療に携わる中で〝政治の病気〟を治さなければと感じていたので、立候補の要請は光栄なことだと思ったし、すんなりとお受けしました。病院の仲間は患者さんの治療でがんばるけれども、僕は病院のみんなが日々感じている悔しさ、憤りを力に政治の病気を治す分野でがんばる。そんな生き方もあるんじゃないかなと思って。
よく、「医療の分野からなぜ政治の分野に転身したのですか?」と聞かれるのですが、私にとっては、別の世界にいったというよりも、医者としてやってきたことの延長線上に政治家としての人生があったという感じなんですね。

わかりやすく
もちろん、生まれて初めて選挙というものに出るわけだし、右も左もわからず、大変でした。街頭演説も政見放送も初めての経験ですから。とにかく医療現場で体験したときの思いを、素直に、無我夢中で語り歩いたというのが実感です。
医者は患者さんに、わかりやすく説明するのがすごく大事なわけです。難しい言葉を使わずに、病気のいまの状態とか、どういう治療方針でいくのか、これからの見通しはどうなるのか、ということを説明しなきゃいけない。参院候補となってから、その経験も役立ったと思います。
98年の参院選で初当選し、以来、2期12年間、国会質問に立った回数は330回以上です。くらし、雇用、医療、子育て、平和など、あらゆる問題を国民の立場で追及、提案しました。
いまでも忘れられないのは、01年の参院厚生労働委員会で取り上げた、関西医大病院の研修医(森大仁さん・当時26歳)の過労死問題の質問です。森さんの労働時間は、ほぼ毎日15時間以上。一方、給与はわずか1カ月6万円。しかし、大学側は「研修医は労働者ではない」と主張していました。

思い込み上げ
彼の手記を紹介しながら話しているうちに、夢と希望にあふれて研修医になったのに過労死してしまうという悔しさを思い、ぐっと言葉に詰まってしまって。
思いがこみ上げてきて、しばらく言葉になりませんでした。質問をとおして、厚労省の労働基準局長は、研修医が「労働者」にあたることを認め、労基法上の問題があれば指導すると答えました。その質問は、フリーライターの方が取材した『研修医はなぜ死んだ?』(塚田真紀子著、日本評論社)にも紹介されています。(※)
ある大臣から、「小池さんの質問は、たとえば医療の現場や労働の現場で、実際に起こっている事実を突きつけてくるから、私の方も耳を傾けざるを得ない」といわれたことがあります。やはり事実の力は大きい。
こんなふうに患者さんが苦しめられている、こんな薬害が起こっている、労働法制の規制緩和でこんなひどい雇用破壊が起こっている。それは事実です。「そんなことはない」とはいえません。事実の重みは政治を動かす力を持っています。
背後には、数千万の人々の思いがあるわけですから、絶対負けるわけはないと思いながら質問していました。

(※)『研修医はなぜ死んだ?』から 「短く刈り込んだ髪にサーモンピンクのネクタイが若手議員らしい。小池晃議員の質問が始まった。…『こうした無理な労働の結果、八月に心筋梗塞で亡くなられた。きょうお父さんもお見えなんですけれども…本当に希望に燃えて医師の道を歩みだして…』そこまで話した時、小池議員は声をふるわせた。自分が研修医だったころの思いや、志半ばで逝った大仁の無念さが、胸に迫ってきたのだろうか」

写真/参議院で初当選し代々木病院のみなさんから花束を贈られる小池さん=1998年

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命を守りたい 私の原点

テレビの討論番組に、党を代表して出演することがあります。テレビ討論は本当に難しく、いまも試行錯誤の連続です。
テレビの向こうで見ている人は、圧倒的に共産党には普段接したことのない人たちです。党の演説会であれば、共産党のことをある程度理解してくださる方が聞いているわけですが、共産党の話を聞こうと思ってもいない人たちに、どうやって耳を傾けてもらうか。かなり工夫がいると同時に、正確にきちんと党の政策を語らなければなりません。
共産党の話も、なかなかいいじゃないかと思っていただけるように、もっともっと努力していきたいと思っています。

「かっこいい」
2004年の参院選の直前に生まれた長男は、ことし4月で小学4年生になりました。子どもがどんどん成長していく姿を見るのは、本当に喜びです。体も大きくなるし、話すことも大人びていくし。
子どもが保育園に通っていたころ、保育士さんから「お父さん、お母さんの仕事はなんなの」と聞かれて、「ママはお仕事する人、パパはお話しする人」と答えていました。テレビ討論で話をするような姿ばかり見ているからかなとか、ときどき街頭演説に連れて行ったりしているからかなと思って。「お仕事する人」のママより、ちょっと軽く見られているんじゃないかなと思ったこともありますけど。(笑い)
この前、小学3年生の3学期が終わってプリントを整理していたら、子どもが将来なりたい仕事を書いているのを見つけました。なんて書いているかなと思ったら、一つは「プロ野球選手」。もう一つは「国会議員」。
いま、少年野球をやっているので「プロ野球選手」はわかるんですが、「国会議員」になりたい理由は、「お父さんが国会議員に入っているので、かっこいいと思ったから自分もなりたいと思った」と書いていて。いま私は、国会議員には「入って」いないんだけど(笑い)。でも、僕の姿を子どもなりにこんなふうに見ていてくれたんだと思って、ちょっとうれしかったですね。

心からの怒り
家族には、いろんな苦労もさせていると思うんです。町にはポスターが貼られ、テレビにも出るので、子どもたちの集まりに行くと「小池あきらだ!」とか、子どもたちは言うし。そんななかで暮らしているから、子どもなりにプレッシャーもあるのかなと思います。これからも成長していく姿を楽しみに、きちんと見守り、ともに成長していきたい。
自分に子どもが生まれ育っていくと、子どもの大切さ、命の大切さを本当にこれまで以上に強く思うようになりました。いまも世界で、いろんなところで子どもたちが戦争で命を奪われるというニュースを見ると、胸が締め付けられるような心からの怒りを感じます。
戦争に反対し、命を守りたい。私の原点です。これからも、子どもたち、そしてすべての国民の命を守るために全力でがんばりたいと思います。
(おわり)

写真/子どもを保育園におくる小池さん

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